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2008年04月07日

藤原仲麻呂の乱について

こんな計画があった事知りませんでしたね。
本当に奥が深いです。

藤原仲麻呂は光明皇后の信任を得て紫微令に任じられて次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると仲麻呂は孝謙天皇と光明皇太后の権威を背景に政権を完全に掌握した。天平宝字2年(758年)、仲麻呂の推す淳仁天皇を即位させて、太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。天平宝字4年(760年)には遂に太師(太政大臣)にまで登りつめた。

栄耀栄華を極めた仲麻呂だが、光明皇太后が死去し、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛しはじめたことで暗転する。仲麻呂は、淳仁天皇を通じて孝謙上皇に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これが上皇を激怒させた。孝謙上皇は怒りのあまり出家して尼になるとともに「天皇は小事を行い、大事と賞罰は自分が行う」と宣言してしまった。孝謙上皇の道鏡への寵愛は深まり、逆に仲麻呂を激しく憎むようになった。

焦った仲麻呂は軍権をもって孝謙上皇と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、淳仁天皇に願って都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じられた。諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、仲麻呂は600人の兵を動員するよう大外記高丘比良麻呂に命じた。仲麻呂は都に兵力を集めて反乱を起こそうと企んでいた。

9月11日(10月14日)、比良麻呂は孝謙上皇に動員令を密告。孝謙上皇は少納言山村王を淳仁天皇の居る中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を回収させた(一説には淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたという)。これを知った仲麻呂は子の訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させて、玉璽と駅鈴の奪回を図った。しかし、直ちに授刀衛の少尉坂上苅田麻呂と将曹牡鹿嶋足が出動して、訓儒麻呂を射殺した。

孝謙上皇は仲麻呂の邸に勅使紀船守を送り、官位の剥奪と藤原姓を名乗らせぬとの宣言をさせる。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、宇治へ入り、仲麻呂が長年国司をつとめ勢力地盤だった近江の国衙を目指した。孝謙上皇は吉備真備を召して従三位に叙し仲麻呂誅伐を命じる。

仲麻呂の行動を予測した真備は、山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊太智の率いる官軍を先回りさせて勢多橋を焼いて、東山道への進路を塞いだ。仲麻呂はやむなく子の辛加知が国司になっている越前国に入り再起を図ろうとし、琵琶湖の湖西を越前に向い北進する。淳仁天皇を連れ出せなかった仲麻呂は、氷上塩焼(かつての塩焼王)を偽帝に擁立し、太政官符をもって諸国に号令した。ここに、二つの朝廷ができたことになる。

官軍の佐伯伊太智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、物部広成に愛発関(近江と越前の国境の関所)を固めさせた。仲麻呂軍の先発隊精兵数十人が愛発関で敗れた。辛加知の死を知らない仲麻呂は愛発関を避け、舟で琵琶湖東岸に渡り越前に入ろうとするが、逆風で舟が難破しそうになり断念して、塩津に上陸し陸路、愛発関の突破をはかった。佐伯伊太智が防戦して、仲麻呂軍を撃退する。

仲麻呂軍は退却して三尾(近江国高島郡)の古城に篭った。官軍は三尾を攻めるが、仲麻呂軍は必死で応戦する。9月18日(10月21日)、官軍に討賊将軍・藤原蔵下麻呂の援軍が到着して、海陸から激しく攻めたので、ついに仲麻呂軍は敗れた。仲麻呂は湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、官兵・石村石楯に捕らえられ殺された。塩焼王も琵琶湖畔で処刑された。

仲麻呂の一族は滅び、淳仁天皇は廃位され淡路に流された。代わって孝謙上皇が重祚する(称徳天皇)。以降、称徳天皇と道鏡を中心とした専制体制が確立した。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年11月25日

年貢の秘密

年貢とはどのような制度だったのでしょうか。
考えてみました。

年貢(ねんぐ)は、日本史上の租税の一形態。律令制における田租が、平安初期?中期に律令制が崩壊・形骸化したことにともなって、年貢へと変質したが、貢租(こうそ)という別称に名残が残っている。その後、中世・近世を通じて、領主が百姓をはじめとする民衆に課する租税として存続した。主に、米で納めるため、その米を年貢米(ねんぐまい)と呼ばれた。


沿革
7世紀末?8世紀初頭に始まった律令制における租税は、租庸調制と呼ばれ、人民一人ひとりを対象に課税・徴税する性格が強かった。こうした租税制度は、戸籍・計帳の整備や国郡里(郷)制といった緻密な人民支配システムに大きく依存していた。しかし、9世紀?10世紀ごろになると、百姓層の中で田地を開発・集積する富豪層が出現するようになった。こうした富豪層は田堵と呼ばれ、開発・集積した田地の経営(営田)や私出挙の実施などで富を蓄積し、一般の百姓を自らの経営下に組み込んでいった。このような百姓内の階層分離が進んでいく中で、政府による律令制的支配は徐々に弛緩していき、戸籍・計帳の作成や班田などが実施されなくなっていった。

そうなると、人民一人ひとりを収取(課税・徴税)単位としていた人別支配はもはや不可能となり、政府や支配層にとって別の支配体制を構築する必要が生じていた。まず、公田を支配していた国衙が、当時台頭しつつあった田堵と連携して、土地を収取単位とする支配体制を築き始めた。国衙は、国内の公田を名田に再編成し、名田経営を田堵へ請け負わせ始めた。名田経営を請け負った田堵は、従前の田租や調・庸・雑徭・正税出挙に相当する分量を国衙へ納入した。こうした租税請負の形態を負名(ふみょう)という。上記のうち、主として田租や正税出挙に由来するものを官物(かんもつ)といい、主として調・庸・雑徭に由来するものを雑役(ぞうやく)といった。そして、官物にあたるものが年貢となっていくのである。

以上のような名田を中心とする収取体制(これを名体制または名田制という)は、11世紀?12世紀以降、一円化して領域制を高めつつあった荘園にも導入された。荘園内の田地は名田へ再編成され、田堵らが名田経営と領主への貢納を請け負った。領主への貢納のうち、国衙領でいう官物にあたるもの(田地からの収穫米)が年貢と呼ばれるようになった。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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